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松山地方裁判所 昭和31年(行)1号 判決

原告 橋本章

被告 愛媛県知事

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告が昭和二十三年十二月三十一日愛媛県伊予郡双海町(買収当時は下灘村)大字串カミヤ乙八百二十九の四、畑四反八畝十四歩についてした買収処分の無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因として、右請求の趣旨掲記の土地(以下単に本件土地と略称する)は原告の所有であつたが、昭和二十三年八月九日愛媛県伊予郡下灘村農地委員会は右土地を農地なりとしてこれにつき自作農創設特別措置法(以下単に自創法と略称する)第三条第五項第二号による買収計画を樹立し、被告は右計画に基き同年十二月三十一日本件土地を買収し、同日訴外戎井類太郎に売渡した。更にその後右訴外人は昭和二十九年一月本件土地の内一畝の耕作権を訴外中田繁夫に譲渡し、昭和三十年三月十三日には残り全部の耕作権を訴外村上正盛に売渡したものである。

然し乍ら右買収処分は次の点において重大な瑕疵がある。

本件土地は自創法の適用上買収の対象である農地ではない。すなわち、本件土地は買収当時植栽後約二十年を経過した蜜柑樹が生立している、いわゆる蜜柑樹畑(果樹園)であつて自創法にいう農地にはあたらないのであるから本件土地を農地として買収することはもとより許されないものである。

自創法に規定する農地買収及びその売渡は同法の企図する自作農創設のため不耕作地主(但し一定面積の農地の保有を許された場合は例外)若しくは一定面積以上の自作地を有する農地所有者から国が一方的にこれが所有権を取得した上農地そのものから充分な労働の成果を挙げ得る者に該農地の所有権を取得させることである。しかして同法にいわゆる農地とは耕作の目的に供される土地をいうのであり買収及び売渡の対象となるのは農地である土地だけであつてそれ以外のものには及ばない。労働力で生み出し得る地上の定著物の如きは農地には包含されないのであり、若し先人の汗と脂との結晶である労働の成果までをも国が一方的にその所有権者から買収することができるものとすると自創法が土地耕作者自身にその労働の成果を公正に享受させることを目的とすることと矛盾する結果となる。蓋し自創法第一条にいう労働の成果とは決して歴史的な過去の労働の成果をいうのではなく自作農となつた以後のその人の労働の成果を意味するからである。されば地上に物件が存する場合にその土地を国が一方的に買収することは他の法理によるは格別、自創法を以てしてはこれをなし得ない。このことは自創法が地上に樹木の生立する山林を農地として取扱わないで買収及び売渡の対象から除外したことからも窺い知られることであつて果樹園が農地にあたらないことは山林を農地として取扱わないことと全く同一根拠に由来するのである。

個人の所有に属するものを国が一方的に買収することは甚だ乱暴なことであつて元来許されない筈であるが自作農創設のため土地だけはやむを得ないとして土地だけに限定してこれが買収を法律が認めたのであるから、地上に物件のある土地を自創法によつて買収することの許されないのは、単に山林及び果樹園に限らないのであつて生育中の麦作、稲作及び野菜等の存するいわゆる農地も然るのであるが、麦作、稲作等は大体半年毎に生育を遂げて収穫を挙げられる関係上、国は作物のない時期をねらつて買収するからこそこれが許容されるのである。

またいわゆる果樹園の価額と農地の価額とを比較すると果樹園が長年月に亘る労資投下の結果生じたものであるだけに農地に比して遥かに高価であるからこれを農地と同視することは不合理である。

次のような理論で本件土地が農地であるとしてこれが買収を適法であるとすることもできない、すなわち地上物件のある土地の買収を可能とする理論を民法第八十七条所定の従物は主物の処分に従うとの原則に求めることは許されない。というのは、果樹のような地上物件は土地の用法に従い自然に得たものであつて右にいう主物従物の観念には包含されないばかりでなく、用途から論ずると寧ろ地上物件が主物であつて、土地がその従物であるというべきであり、仮りに主物従物の観念を容れる余地があるとしても同条にいう処分は所有権者の処分をいうものであるところ、自創法所定の買収処分の中には土地所有権者の処分なる観念は全然包含されていないからである。

また地上物件の存在する土地についてその土地だけの買収は可能であるとの理論も成立しない。蓋し果樹所有権の内容がその場所において果樹を生成発展させるということである以上、土地を奪うことは当然果樹所有権の否定に帰するものであるところ、土地と果樹とを分離して土地だけの買収を許容する法律の定めもないからである。

要するに以上説明した理由により果樹の生立する土地を農地であるとして買収することは許されないことである。然るに本件土地上には植栽後約二十年を経過する蜜柑樹が生立していることは前述のとおりであり、本件土地は元来小作地でなく、いわゆる認定買収になつたものであつて、土地だけでなく蜜柑樹も原告の所有であつたのであるから、これを農地として買収することは許されない。結局本件買収処分は法令上の根拠なくして行われたもので当然無効である。

よつて、被告のした本件買収処分の無効確認を求めるため本訴に及ぶと述べ、

被告の主張に対し本件の買収対価が土地と蜜柑樹とを一括して被告主張の額であることは争わないと述べた。

(立証省略)

被告指定代理人は主文と同趣旨の判決を求め、答弁として、本件土地が原告の所有に属し買収当時植栽後約二十年を経過した蜜柑樹の生育していた蜜柑畑であること、本件土地につき原告主張のとおり買収計画がたてられこれに基き被告が買収及び売渡の処分をしたこと、訴外戎井類太郎が被告の許可を受けて本件土地を訴外村上正盛に売渡したことは認めるが、その余は争う。すなわち、訴外戎井が本件土地の一部耕作権を訴外中田繁夫に譲渡したことは知らない。被告は本件土地の全部について訴外戎井が訴外村上に売渡すことにつき承認したものである。なお本件買収処分は土地とともに蜜柑樹もその買収の対象としたものであつて、その対価は素地と蜜柑樹とを含めて金壱万参千参拾六円拾八銭であつて、もし素地だけとすればその買収価額は金八百六拾四銭に過ぎない、その外に報償金として金弐百参拾参円五拾弐銭が原告に対して支払われていると述べた。

(立証省略)

理由

本件土地は原告の所有であつたところ、昭和二十三年八月九日訴外愛媛県伊予郡下灘村農地委員会は本件土地が農地にあたるものとして自創法第三条第五項第二号に基き買収計画を定め、被告は右計画に基き同年十二月三十一日本件土地を買収し、同日これを訴外戎井類太郎に売渡したものであること及び右買収当時本件土地が植付後約二十年を過ぎた蜜柑樹の生育しているいわゆる蜜柑畑であつたことは当事者間に争がない。

原告は地上に物件の存する土地すなわち本件土地のように地上に蜜柑樹の生育している土地(蜜柑畑)は自創法にいう農地ではないと主張しその理由を詳述するので検討を加えることとする。

原告は自創法第一条にいわゆる労働の成果とは自作農創設以後の労働の成果をいい、過去の労働の成果を含まないから先人の労働の成果によつて生じた地上物件の存する土地は農地でなくこの理は果樹園も山林も同様であると主張する。なるほど同条にいう労働の成果が過去のものではなく、将来のものであると解すべきことは同法の趣旨からいつて多言を要しないところであろう。しかし同条のいわゆる労働の成果を右のように解すべきであるからといつて直ちに過去の労働の成果によつて生じた地上物件のある土地は総て農地ではないと断ずることは論理の飛躍であつて早計のそしりを免れない蓋し自創法上農地であることについては一般に承認されて疑のない麦作畑、稲作田等でさえ多少の差異はあつても先人の汗と脂との結晶である労働の結果によつて現在のような耕作の容易な既墾の土地になつたのであつて、原告の主張する過去の労働の成果が全く加つていないものではないのみならず当該土地が農地であるかどうかの基準は自創法第一条に規定する自作農創設の目的と自創法を一貫する法意に照して決定すべきであるからである。

自創法第二条第一項は農地とは耕作の用に供される土地をいうと規定し山林が農地から除外されることを定めている。しかして右に耕作というのは土地に労働力を加え資本を投下し肥培管理を施して作物等を栽培することを指すものと解すべきである。

ところで、原告は果樹園が農地でないことは山林が農地でないのと同一根拠に由来すると主張するが、山林と果樹園とは次の諸点において異るものと謂うべきである。すなわち、山林は植林である場合には当初簡単な整地をし苗木を植付け下刈を実施する等労力を加えるけれどもやがては何等の労働力を加えないでも自然に成長し、数十年の時の経過によつて漸く植林の目的を達成するのであつて、この間耕作の要素である肥培管理をしないのみならずその主な目的とするところは成長した立木自体であつて毎年果実を収穫するというようなことは期待することはできない。また自然林である山林はなおさら肥培管理の観念を容れる余地のないこと明らかである。これに反し果樹園は当初その土地が既墾地であるならば直ちに苗木を植付けることができるけれども、若しその土地が未墾地の場合には開墾をしてから始めて苗木を植付けるのであり植付後は絶えず肥培管理をし果樹が成長して果実を生ずるに至つても果樹果実を病虫害から保護するため及び果樹果実の成育を期するため依然として常に肥培管理を実施し、その結果毎年一定の時期に果実の収穫を挙げることができるのであり、年々同一のことを反覆して行うのであつて、その目的とするところは果実の収穫であり、この点からいうと麦や米等の収穫と類似しており、果樹そのものを直接の目的としない点で山林が樹木自体を目的とするのと本質的に相違するのである。従つて植林は自創法にいう耕作とは称し得ないのに反し果樹園の栽培は耕作と称し得るのである。

原告は本件土地の蜜柑樹は素地とともに原告の所有に属するから蜜柑樹を保持成育するため欠くことのできない本件土地を農地であるとして買収することは違法であり、また従物は主物の処分に従うとの原則の適用によつて本件土地の買収が適法であるとすることもできないと主張する。本件土地がいわゆる認定買収を受けたものであることは前記認定のとおりであり、右事実から判断すると本件蜜柑樹は原告自ら植付けたものであるか又は原告において土地とともに他から承継してその所有権を取得したものであることが推認できる。本件土地の買収対価が素地と蜜柑樹とを含めて金壱万参千参拾六円拾八銭であつたことは当事者間に争がなく、成立に争のない乙第一号証及び弁論の全趣旨によると、もし素地だけとすればその買収対価は金八百円六拾四銭に過ぎないこと及び本件買収については前示対価の外に報償金として金弐百参拾参円五拾弐銭が原告に対して支払われている事実が認められ、右各事実を綜合して判断すると本件買収は素地とその地上に成育する蜜柑樹とを一括して行つたものであることが明らかである。立木法による立木、立木法の適用を受けない樹木の集団もしくは仮植中の苗木ならば土地とは独立に所有権の対象となるけれども、蜜柑樹そのものは土地の定著物として土地と一体をなすものであつて独立に所有権の対象となるものではないと解するを相当とするから、小作人が自ら蜜柑樹を植付けた場合であると本件のように土地の所有権者である原告が自らこれを植付けもしくは他から土地とともに譲渡を受けて所有権を取得した場合とによつてその結論を異にするいわれはなく、右孰れの場合においても蜜柑樹の所有権は土地とともに土地所有権者に所属するものといわねばならない。そうすると蜜柑樹の所有権が原告に属することを理由として本件土地が農地でないという根拠とすることはできないのみならず、被告は従物は主物の処分に従うとの原則によつて本件土地の素地と蜜柑樹とを買収したのでないことも明らかである。

原告は価格において通常の農地よりも遥かに高価である果樹園を農地として取扱うことは違法であると主張する。なるほど同程度の土地であつて蜜柑樹の生立する土地と然らざる土地とがその価格において差異のあることは容易に推認されるところである。さればこそ被告は右事情を斟酌した結果前記認定のとおり、もし素地だけであるとすればその買収対価は僅かに金八百円六拾四銭に過ぎないものを蜜柑樹の生立しているため素地と蜜柑樹とを含めて買収対価を金壱万参千参拾六円拾八銭と定めて原告に対して右対価を支払つたのである。右買収対価が買収の行われた当時の一般物価に比較して低廉であつたにしてもこのことは独り本件果樹園に限らないのであつて他の一般農地の買収対価についても同様であつたのである。抽象論として農地の買収対価をどの程度に決定するかは終戦後行われた農地改革の遂行上大きな問題であつたのであるが、それはともかく本件土地の買収対価が低廉であることを理由として本件土地の買収が無効であると言い得ないことは明らかである。

本件土地が前記買収当時植付後約二十年を経過した蜜柑樹の生育しているいわゆる蜜柑畑であつたことは前記認定のとおりであり、弁論の全趣旨によると本件土地は蜜柑栽培の目的で右期間肥培管理が施され蜜柑の収穫が行われて来たものである事実が認められ、右蜜柑の栽培は自創法第二条第一項にいう耕作の目的に供せられる土地に該当すること前段説示のとおりであつて本件土地が耕作の目的に供される土地であることが明かな以上、自創法にいわゆる農地であると謂うべきである。地上に蜜柑樹の存することは右認定の妨となるものではない。蓋し自創法は農地であるかどうかの標準を、地上物件の有無によつて決定しようとしているのではなく、当該土地が耕作の用に供される土地であるかどうかによつて決定しようとしていることが、同法第二条第一項の規定から看取できるからである。

さすれば本件土地を農地ではなく自創法による買収の対象とならないとの原告の主張は何ら理由がないから右事由に基き本件買収処分の当然無効を主張する原告の本訴請求は失当として棄却すべきである。

よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 谷本仙一郎 木原繁季 中利太郎)

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